第33回 大学・大学入試情報コラム

集会、デモ参加をアピールして大学に合格。その背景は・・・。

2022年2月
教育ジャーナリスト 小林哲夫

 某高校、某大学の話である。
 高校は関東の公立、そして、大学は早慶上智MARCH関関同立のなかの1つである。それぞれM、N高校、X、Y大学と表記しよう。

 2021年、M高校のAさんがX大学の総合型選抜入試(旧名称・AO入試)に合格した。Aさんは入試選考にあたって課せられた小論文、面接で、高校時代の話をアピールした。2020年、気候温暖化対策を求める集会やデモに参加したことをあますことなく書き、熱く語ったという。Aさんはこうふり返る。
「学業成績はそれほど良くありません。だって、集会参加で勉強していなかったから。部活動も生徒会活動もしていません。ボランティアの経験もありません。それでも、受かったのは、気候問題で活動を続けたおかげではないでしょうか」。

 これと似たような話があった。
 2013年のことである。N高校のBさんは在学中、ヘイトスピーチに反対するデモに参加していた。当時、東京、新大久保では民族差別団体が在日外国人の商店前で「日本から出て行け」「ゴキブリ」などと大音響のスピーカーでがなり立てていた。これに対して、民族差別団体を糾弾するグループが生まれ、「カウンター」と呼ばれていた。Nさんは、「カウンター」の中に身を置いて、民族差別団体に怒りの声をあげていた。

 Bさんは翌年、Y大学のAO入試に挑み、小論文で「カウンター」経験を存分に書き記した。合格である。
 Bさんは特定の政治団体に属していたわけではない。いつも1人で声をあげていた。また、反原発集会に参加することもあった。高校2年から3年にかけてのことである。Bさんのこうした取り組みは、政治活動と言える。
 当時、高校生の政治活動は原則として禁止されていた。これは1969年、高校生の政治活動が激しくなり、校舎のバリケード封鎖、街頭で機動隊との衝突が頻繁に起こったとき、文部省(当時)の出したお達しである。
 しかし、Y大学はBさんの政治活動を入試選考で評価したのである

 2015年、Bさんが大学2年のとき、安保関連法案に反対する学生、高校生が国会前に集まっている。Bさんもその1人だった。このとき、高校生の政治活動は条件付きで認められることになった。
 したがって、2020年にAさんが参加した気候温暖化要求デモは高校生が行っても「合法」とされたのである(そもそも、高校生だからといって政治活動を禁止するのは、思想信条の自由、言論表現の自由を定めた憲法に違反している)。

 2013年に民族差別反対団体への抗議活動を行ったBさん、そして、2020年に気候温暖化要求のアクションを起こしたAさんについて、文科省の「高校生が政治活動」云々とはまったく関係なく、X大学、Y大学は入試選考で評価したことになる。

 2020年のAさん、2013年のBさんを受け入れた選考方法=総合型選抜とは何か。
 AO入試と呼ばれていたころ、文部科学省は次のように定義している。「受験生の「能力・適性や学習に対する意欲、目的意識等」を判定する選考方法で、高校時代の部活動の成績、生徒が独自で究めた専門性などが評価される」。その方法は「小論文、プレゼンテーション、口頭試問、実技、各教科・科目に係るテスト、資格・検定試験の成績」。
 なるほど、政治活動は「生徒が独自で究めた専門性」と読み取ることができる。入試選考において、極端な言い方をすれば、高校時代オリンピックに出場して金メダルを獲得した「独自で究めた専門性」と、政治活動が同じように評価されたというわけだ。

 以前ならば考えられない話だった。
 半世紀以上前のことである。1970年代前半、福島県の県立高校生徒が成田空港反対運動(三里塚闘争)に参加したことで学校から謹慎処分を受けた。この時代、大学入試の内申書に「三里塚闘争参加」と記入したら、どうなっただろう。大学は「過激派がやってくる」とビビって学業成績優秀でも入学を許可しなかったかもしれない(これも思想信条の自由に反して、憲法違反だが)。

 もちろん、いまと半世紀前の「高校生の政治活動」はかなり様相が異なる。いま暴力性は見られず、デモ参加ではたとえば投石するようなことはしない。「公務執行妨害」とみなされるような法の逸脱行為はせず、街を整然と行進して自らの主張を訴える。

 じつは、このあたりについては進学指導する教師にとって悩ましいようである。
 大学入試選考において、このような「政治活動」がプラスの評価になるとは思えない、大学によっては嫌われるのではと考えるからだ。となれば、教師は無難な活動ならば大丈夫ではと思うようになる。たとえば災害復興、地域での障害者支援のボランティアなどだ。
 では、入管法改定反対(ウィシュマさん問題)、東京五輪開催反対、性差別反対(フラワーデモ)、香港の民主化などを訴えてデモに参加する生徒はどうだろうか。これらについて教師は生徒が「独自で究めた専門性」として受け止めるだろうか。
 おそらく教師は二の足を踏むであろう。
 反体制的な行動は大学の心証を悪くする、大学はこんな高校生を「過激派予備軍」と見立てて拒否反応を示すに違いない―――そう教師は思うかもしれない。

 だが、いま、そんな時代だろうか。
 体制的なほうが安心で合格、反体制的なのはダメだから不合格という発想をもたなければならないほど、重苦しい社会ではなかろう。
 そして、高校生が大学に入って「過激派」となり、キャンパス、街頭で暴れまくるシーンは想像できない。そんなことをするグループもいない。これは世界的な傾向である。
 気候温暖化要求の行動は、2010年代後半、スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリさん(当時16歳)が世界中に広めた。日本の高校生も彼女と行動をともにしたいと声をあげている。その行動は平和的に行うスタンディング、デモであり、逮捕者、負傷者をだすことはない。
 
 文部科学省は教育改革を進めてきた。そのなかで、子どもたちが受け身ではなく、主体的に判断する、言い換えると自分でものを考える=「生きる力」を身につける教育政策を打ち出してきた。 
「新たな価値を生み出していくために必要な力を身に付け、子供たち一人一人が、予測できない変化に受け身で対処するのではなく、主体的に向き合って関わり合い、その過程を通して、自らの可能性を発揮し、よりよい社会と幸福な人生の創り手となっていけるようにすることが重要である」
「様々な情報や出来事を受け止め、主体的に判断しながら、自分を社会の中でどのように位置付け、社会をどう描くかを考え、他者と一緒に生き、課題を解決していくための力の育成が社会的な要請となっている」(中央教育審議会「「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について〈答申〉」2016年12月21日)

 いま、教育改革で採り入れられているアクティブ・ラーニングは、課題発見、問題解決能力を養い、「自分の頭で考える」力を育むことをめざしている。
 また、2021年度からの大学入試制度改革は、「自分の頭で考える」を試すことを掲げている。それゆえ、頓挫したが、大学入学共通テストで記述式を課そうとしたわけだ。
 コロナ禍という「予測できない変化」、そして、昨今では「ロシアのウクライナ軍事侵攻という「様々な情報や出来事」が起こった。コロナ禍で奨学金を求める高校生がいた。ロシアの軍事侵攻を反対するアクションを起こす高校生がいるかもしれない。
「よりよい社会と幸福な人生の創り手」となろうとして、「自分の頭で考える」高校生が、総合型選抜で自分が取り組んだことをアピールしたいとする。このとき、教師はどうかあたたかく見守ってほしい。
 大学が2020年のAさん、2013年のBさんを受け入れたのは、「政治活動」を行うにいたる「自分の頭で考える」ことを評価したからではないか。大学教員にすれば、学問に取り組む姿勢としてそんな学生はほしいと考える。大学教員が思想調査まがいなことをすると考えにくい。たとえば無条件に暴力を賛美するようなよほどの極端な思想、考え方でない限り、排除することはないだろう。

2013年ヘイトスピーチに抗議してデモ参加したBさん。いま、弁護士として活躍している。Bさんが入試でデモ参加を訴えたこと。大学がBさんの行動を評価して入学させたことは、間違ってはいなかったと言える。

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