第31回 大学・大学入試情報コラム

刺傷事件と在籍高校に因果関係を持たせることはやめてほしい

2022年1月
教育ジャーナリスト 小林哲夫

 教育ジャーナリストという肩書で仕事をしていることもあって、東京大前で受験生が刺された事件についてメディア数社からコメントを求められた。加害者の在籍校が進学校ということでどんな背景があるのか―――と聞かれた。
 しかし、わたしはそのすべてをお断りした。
 事件について話すことは何もないからだ。いや、話したくない、というのが正直なところである。高校なんて全然関係ないじゃん、という思いがあったからでもある。

 わたしは自分の受験生時代を思い出した。
 1980年、「金属バット殺人事件」と称された出来事が起こった。進学校出身で2年浪人の受験生が両親を金属バットで殴って死に至らしめた事件である。成人ゆえ、実名報道が繰り返され、出身高校の名もバンバン出てしまった。
 加害者はわたしと同年代である。わたしも浪人生だった。当時、親しい友人が加害者と同じ高校の級生であり、「いい迷惑だ。たまたまこの学校に通っていただけの話なのに、まるで学校にも問題があったように報じられる。勘弁してほしい」と話していた。
 40年以上前、インターネットがない時代である。現在のように事件が起こると、だれもが瞬時に事件の概要が知れ渡ることはなかった。とはいえ、しばらくは新聞、週刊誌、テレビのワイドショーで取り上げられ、大騒ぎとなった。
 この事件のあと、わたし自身、まわりから気を使われた記憶がある。近所のおばさんがよそよそしい態度をとっていたのがわかった。
 ほんの一瞬、わたしの両親は心配したらしい。前からほしかった革ジャンを買ってくれた。

 もう少し思い出してみよう。
 当時のメディア、評論家の論調のなかには「受験戦争の犠牲者」という表現があった。厳しい入試に勝つため、受験生は精神的に追いつめられている、と言いたかったのだろう。
 これについて、わたしはまるでピンと来なかった。「犠牲」と思ったことはない。楽天的な性格ゆえ、「来年も落ちたらしょうがねえや。そのときは考えればいい」くらいの気持ちだったからだ。

 一方で、なかには勉強が思うようにはかどらず、ノイローゼ気味の受験生が、わたしの身近にいたのは確かだ。だが、入試制度がある以上、それはいつの時代でも精神的にしんどい思いをする受験生はいるだろう。
 それでも、わたしが受験生だった1980年前後についていえば、ずっと前の時代に比べると、「受験戦争」「受験地獄」という言葉が使われなくなった。大学の数が増えて、高望みしなければ、どこかに入れるという安心感というか、甘えがあったからかもしれない。
 1950年代、60年代は違ったようだ。当時の報道をみると、受験生がけっこう新聞沙汰になっている。ノイローゼになって暴れて人を傷つけた。合格できず自ら命を絶った、などだ。

 こんな時代に比べれば、それから半世紀以上経った、令和の受験生は大学入試に挑むにあたって、それほど深刻ではないか、と思うことがある。
 大学進学率が高まったとはいえ、少子化がいっきに進み大学進学者数はここ数年、横ばいである。それにくらべて大学数、定員は進学者よりもかなりの勢いで増えた。大学の総定員数は大学進学希望者を上回るという、カンペキな全入時代が2024年に到来すると言われており、現在はほぼそれに近い状態だ。
 また、学校推薦型選抜(旧・推薦)、総合型選抜(旧、AO入試)の普及によって、一般入試に挑む受験生の比率は、2000年代までに比べるとかなり低くなった。その分、受験勉強に邁進する高校生は減ったことになる。
 さらに、浪人生が少なくなっている。これは経済的理由が大きい。浪人することで1年をムダにして受け取れる生涯賃金にもかかわると功利的に将来を考える高校生も出てきた。ならば第1志望でなくても、第2、第3志望でもいい、という考えも広がっている。それは、「なにがなんでも東大」「絶対に早稲田」「慶應しか眼中にない」という、伝統校、難関校、ブランド校に固執しなくなったことを示している。

 だからいって、受験生はいなくなるいわけではない。浪人生が消滅するわけでもない。それゆえ、今回のような事件が起きると、受験「競争」に結びつけられてしまう。
 現在でも受験生、浪人生に対してまわりは特別な目でみることはあろう。とくに東京大を目ざすような進学校の生徒は気を使う、場合によっては腫れ物扱いする、というのは、あるはずだ。
 これは進学校がかかえる宿命のようなものだが、難関大学に合格して当然とまわりはみてしまう。それゆえ、進学校の受験生が大きな事件を起こしたとき、大きなハレーションを起こす。メディアや評論家は事件に関わった進学校と紐付けようとする。事件の背景を進学校の校風あるいは生徒のキャラクターから探る。
 だが、そんなことにどれだけの意味があるだろうか。
 まったくない。
 在籍校がどんなに進学実績が高くても、事件とはなにも関係ない。
 たまたまその時代、その学校に通っていた生徒、というだけのことである。

 今回の事件を報じるなかで、こんな結論を綴った記事がある。
 「歪んだ競争原理の淵にAを立たせ、蛮行へと走らせたものは何だったのか」(女性セブン2022年2月3日号)。
 なにがそうさせたのか・・・、という物言いは、競争原理で成り立つ現在の大学入試制度を作った社会に問題があるかのような苦言を滲ませている。なるほど、とてもわかりやすい。が、こういうのをステロタイプという。こんな問いかけにはだれもまともに答えられず、意味をなさない。
 社会はまったく悪くない、とは言うつもりはない。だが、何でも社会のせいにする。それによって加害者が免罪されるのでは、被害者はたまったものではない。

 久しぶりに、受験に関わる事件報道に接して、猛烈な違和感を抱いた。
 メディアはことさら学校名をさらして、あれやこれやと書き散らす。いい加減、やめてくれないか。同業者として恥ずかしい。受験生に申し訳ない。
 受験生のみなさん。
 こんなメデイアの報道に心乱さず、自分のペースで受験勉強に取り組んでほしい。

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