第49回 大学・大学入試情報コラム

「文武両道」を求めるのはほどほどに。
高校生アスリートにはけっこうしんどい。

2023年1月
教育ジャーナリスト 小林哲夫

 全国高校ラグビー選手権大会1回戦では、岩手県立黒沢尻北高校と山形県立山形南高校が対戦した。このとき、高校ラグビーを実況するスポーツチャンネルでアナウンサーが東北地方のいずれも進学校で文武両道校同士の対決、という趣旨の話をしていた。

 黒沢尻北は1922(大正11)年開校の旧制黒沢尻中学が起源となっており、ちょうど100年の歴史を迎えたばかりだ。教育方針に「文武両道・遠大励志・凡事徹底」を掲げる(同校ウェブサイト)。22年の進学実績は岩手大28人(6位)、東北大6人(84位)だった。
 山形南は1941(昭和16)年に開学した旧制山形第二中学を起源とし、80年の歴史がある。自らこう紹介する。「本校は、旧制中学の伝統を引き継ぎ、学習と部活動との両立「文武両道」を校是とする高等学校です」(同校ウェブサイト)。同・進学実績は山形大62人(1位)、東北大5人(102位)だった。
 たしかに両校は進学校でありスポーツでも全国大会出場を果たすなど、地元にとっては誇らしい存在だ。

 全国高校選手権、高校総体(インターハイ)に出場する強豪校のほとんどが、私立高校あるいは体育科設置の高校である。とくにスポーツに特化したコースがない公立高校が全国大会に出るのはむずかしい。
 こうしたなかラグビーにおいて、地域トップの進学校が花園に姿を現す。
 最近では函館ラ・サール高校(2015、17年、21年)、福島県立磐城高校(2009、10、11、21年)、県立浦和高校(2013、19年)、長野県飯田高校(2008、09、11、17、19年)、山口県立山口高校(2016、17、19年)、大分県立大分舞鶴高校(2000~2018、21年)などである。
 2000年以降まで広げると、秋田県立秋田高校(2003年、06年)、福島県立安積高校(2005年)、滋賀県立膳所高校(2002年)、福岡県立福岡高校(2010年)、鹿児島県立甲南高校(2006年)などが出場した。

 これらの学校はメディアで「文武両道」とさんざんもてはやされてしまう。
 全国高校ラグビーは年末年始に試合が行われており、大学入試は目の前に迫っている。大学入学共通テストの直前だ。進学校を紹介する際、3年生部員が宿舎に参考書を持ち込んで夜は受験勉強としばし報じられる。そして、「スポーツができて難関大学を狙えるほど頭が良い」と称賛することを忘れない。

 もっとも最近の記事では、主催者の毎日新聞は「文武両道」ぶりをたっぷり伝えていた。
「長崎北陽台28-19日本航空石川 長崎北陽台、文武両道 19点差なんの 後半一気
 全国レベルの強豪として注目を集めるが、部員たちの日常は変わらず、「ラグビー漬け」にはほど遠い。授業の課題の提出が遅れるなどすれば、練習には参加できないのがルール。自宅学習の時間を確保するため、練習は準備と片付けを除けば正味1時間半程度に限られる。夏合宿は鹿児島県で数日実施したのみ。全国の強豪が集う長野・菅平高原での強化合宿とは縁が無い。
 県内有数の進学校で全国常連のラグビー部も常に学業優先だ。数少ない県外遠征中も勉強は欠かさない。今春に福岡県で開かれた大会に出場した際、3年生は学校で行われる模試に参加できないため、品川英貴監督が試験監督を務めて宿舎で受験した」(2022年12月31日)。

 たしかにスポーツと勉強を両立させた彼らはすばらしい。たいへんな努力、意志の強さは尊敬する。
 しかし、国内でトップクラスの高校生アスリートはだれも「文武両道」というわけではない。小さいころから「部」の英才教育を受けて世界で活躍する高校生がおり、なかには「文」が得意でない者もいる。もっといえば、勉強が苦手だから、あるいは好きでないから、スポーツに力を入れるという高校生は少なくない。おそらく「文武両道」よりもこちらのほうが多いのではないか。

 メディアが「文武両道」の高校生と称えるほど、勉強が苦手な高校生は困ってしまう。わたし自身、「武」はある程度できたが、勉強が苦手で、「文」を求められても結果が出ない(成績が伸びない)ことにとまどい、いらだちを覚えたものだ。そして、つらかった。

「文武両道」は最高の善なのだろうか。
 それでも思い出すのは、43年前の夏である。
 1980年、全国高校野球選手権大会西東京予選の決勝戦。都立国立高校と駒澤大学高校の試合である。わたしは駒澤大学高校の応援席にいた。友人に同校選手がいたからだ。あのとき、観客席の9割以上は国立高校に声援を送っている。駒澤大学高校の選手、応援団がかわいそうに思えた。
 なぜ、こんなことが起こったのか。
国立高校は旧制中学を起源としており、卒業生がたくさんいる。野球がうまい中学生をスカウトして集めた「野球学校」より、地元の成績が優秀な中学生がそろった進学校を応援する空気がいっきに広がりにわかファンが増えた―――からだろう。実際、国立高校が都立の進学校として難関大学進学実績が高く、1980年、東京大合格者は30人を数えた。
 とてもわかりやすい判官びいきである。メディアもそれに乗っかって、「○○選手は東大をめざしています。勉強もしっかりやって偉いですねえ」という口調になってしまう。などと。

 しかし、ひいきされなかった者からすれば、たまったものではない。なぜ、俺たちはヒールにされなければならないのか。そんなに勉強できるのが偉いのか、という話になる。だれもが「文武両道」にならなければならないのか、と言いたくもなってしまう。いわば「文武両道」圧力は、高校生アスリートにとってけっこうしんどい。
 わたしが通っていた高校は甲子園出場経験がある私立高校である。勉強が得意ではない生徒が集まっていた。野球部の友人がよくこんな話をしていた。「公立の進学校には絶対に負けられない。全力で勝たせてもらう。だって勉強でかなわないのに、野球でも負けたらはずかしいよ」。

 一方、ひいきされる側はどうか。甲子園に出場した国立高校のエースは同校の学校史でこう振り返っている。彼は1年浪人し、東大理科Ⅰ類に入学して、現在は精密機械メーカーの技術者である。
「もともと『野球をやるため』『甲子園に行くのだ!!』の気持ちだけで国高に入ってきたようなものである。<略>練習は熾烈を極めた。この練習以上の体力的苦痛は未だ経験していない。野球をやりたいという気持ちは雲一つない青空の彼方へ飛んでいった。なんでこんなことまでして俺は野球をやっているのだろう。と真剣に考えたが、ただの一度でも本気で野球を辞めようとは思わなかった」(『国高五十年史』1991年)
 このあたりのマインドは「野球学校」も「進学校」も変わらない。「文武両道」をめざすという発想が見受けられない。
 ただ野球が好きなだけだ。

 わたしは教育関連の記事を書くとき、ある学校を説明する際、地の文では「文武両道」と記さないようにしている。
 野球だけが得意でもいい。勉強だけが得意でもいい。野球も勉強も両方得意でもいい。野球も勉強も両方得意でなくてもいい。
「文武両道」をやたらほめたたえること、「文武両道」をだれにも過度に求めることはもうやめませんか。

 文部科学省は教育政策において多様性の尊重を訴えている。
 たとえば、中央教育審議会「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して(答申)」のなかにこんなフレーズがある。
「一人一人の児童生徒が、自分のよさや可能性を認識するとともに、あらゆる他者を価値のある存在として尊重し、多様な人々と協働しながら様々な社会的変化を乗り越え、豊かな人生を切り拓き、持続可能な社会の創り手となることができるようにすることが必要」。
 あくまでも「自分のよさ」を優先させる、しかも「あらゆる他者」を尊重することをすすめており、勉強もスポーツもできるようになりましょう、など「文武両道」的な要素は求めていない。

 開成、灘、筑駒が甲子園、花園に出たら、「これはすごい」と大騒ぎになる。東大と甲子園(花園)を両立させたことにだれもが驚き、称賛の声をあげるだろう。並大抵の努力ではなかったはずだ。わたしも「すばらしい」と絶賛したい。
 だが、それを「文武両道」の最高峰としてあたかも手本とするような言説を作り上げてしまう。そして、「彼らを見習いなさい」と説教するのは、いかがなものだろうか。誰もが東大と甲子園をかなえられるスーパーマンにはなれるわけではない。なれなくてもいいじゃないか。

 メディアが「文武両道」と持ち上げるのはもうやめてほしい。
 野球が好き、ラグビーを愛している。それだけでいい。そこに勉強がどうの、受験がどうの、などを興味本意で結びつける必要ない。スポーツでいいプレイをすれば拍手する、受験で難関大学に合格すれば祝福する。その両方を無理に求めなくていい。
 高校生が好きなことに打ち込み、好きなように生きる。それをあたたかく見守る。「文武両道」などと過度にけしかけない。スーパーマンを育てるのではなく、得意なものを伸ばしてあげる。得意なものが見つからなければ探す手伝いをする。それも教育だと思う。

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