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Your Own Future感想文

Your Own Future

Your Own Futureを通して学んだこと、考えたことについて、ご応募頂いた感想文から、編集部が選んだものを掲載しています。
(掲載する際、明らかな誤りは修正しております。)

Your Own Future

感想文の応募に際しての注意

(感想文の募集は、2019年12月31日をもちまして終了とさせていただきます)

1) 感想文は、郵送、またはメールで提出することが可能です(メールの場合、yourownfuture@iizuna-shoten.comにお送りください)。
2) 日本語で書く場合は800字以内、英語の場合は600 words以内。県名、学校名、氏名を記載のこと。
また、HPに掲載する場合に、氏名ではなく、ペンネームを希望する場合は、氏名のほかにペンネームも書いてください。

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また、HPに掲載する際、感想文に明らかな誤りがある場合は変更する場合があります。ご了承ください。

2018年度感想文

Chapter1

阿波克典さん 山口県

私はChapter1が特に印象に残った。文章を読み終わったとき、現在の日本はとても恵まれていて、私たち日本人は平和ボケしていると感じさせられた。 特に印象に残っているのは、マニラ周辺では、ゴミを拾って生計を立てているということだ。子どもたちまでもがそれに取り組んでいて、 ゴミが拾えたかどうかで生活ができるかどうかが決まってしまうという状況にあることも知った。
私は小学生のとき、ゴミ処理場に行ったことがある。そこへ行く前、先生から「鼻をつまむのは職場の方たちに失礼だよ」と教えられていたのにもかかわらず、 私はそこの臭いに耐えられず、思わず鼻をつまんでしまった。今も臭いを思い出すことができる。正直、あそこへは二度と行きたくないと思う。 おそらくマニラ周辺は、同等か、もしくはさらに臭いのきつい場所だろう。そのような場所で私よりも年下の子供たちが毎日生きるために必死にゴミをあさっていると思うと、 自分がこれまでどれだけ恵まれていたのかが分かる。
Columnのところには、このような状況が50年も続いていると書いてあった。これを読んで「平等とは何か」を考えた。果たして、「平等」は守られているのだろうか。 マニラ周辺と日本の決定的な違いは、衛生と医療の普及度であろう。どうして同じ人間なのに、こんなにも生活リスクが違うのだろう。このような違いがあるのに、 命は平等であると言えるはずがない。 こう思う一方で、私たちはこれらのことを気の毒に思うだけで終わってしまっている。将来、恵まれた国に生まれた私たちであるからこそ、 これらの問題にどう向き合っていくべきかを考えなければならないと実感させられた。

宗村隆世さん 山口県

私はオセアニアやアフリカなどの、一見すると貧しい国々の人々は、辛い生活を強いられていると思っていた。しかし、このChapter1を読んで、少し考え方が変わった。 ゴミ捨て場の近くに2万人もの人が住んでいるという衝撃的な内容。さらに、ゴミをあさって収入を得ているという子どもたち。これらは日本とは全く異なる環境で、 それまでぼんやりとしか想像できていないことだった。それが、事実としてはっきりと目の前に示された。 公衆衛生環境がひどく悪く、家には水道もトイレもなく、とても家とは言い難い家に住み、学校もない。
それでも、そのような貧しい生活の中で、子どもたちは家族を養うために、ゴミを拾ったり、勉強をしたりする。 日本の子どもたちは、勉強を強いられているから勉強するが、マニラの子どもたちは勉強を楽しみだと感じている。この違いはなんだろうか。 日本人にあってマニラの人々にないものはなんだろうか。おそらく、日本人はマニラの人々より「心」の貧しい暮らしをしている、と言えるだろう。 喜怒哀楽を多くの人と共有し、お互いに支え合い、補い合っていく暮らし。そうした他者とのつながりを感じる生活が、今の日本には欠けており、 それが日本人の幸福感にも影響しているのではないだろうか。
グローバリゼーションを通して、他国の知識を得ることで、私たちは異なる文化について理解し、多文化社会の可能性を広げていくことができる。 それは私たちの社会にとって有益なことだ。だからこそ、先進国は発展途上国と関わる中で、自分たちの持つ技術や知識を提供するなどして、協力していく責任がある。 なぜなら、私たち先進国に住む人間は、発展途上国に住む人たちから、その国の文化のみならず、人として大事な心を教わっているのだから。

イカさん 新潟県

 私が特に印象に残った章は第1章だ。フィリピンのゴミ捨て場で生きる人々の話だった。
彼らは大量のゴミ山の中から必死になって少しでも価値のあるものを探す。金属やガラス、プラスチックなどの素材は微々たるペソに変わる。そのような生活をしている人々の支援のため、筆者はアロマと呼ばれる地域を訪れた。彼らはひどい衛生状況の中で生きており、病気になったら回復の見込みはまず無い。筆者は学校へ通えないアロマの子供たちと知り合い、絵本を読んだり言葉を教えたりと交流を深めていった。
私が特に心に残った場面は、アロマの子供たちが将来に対する希望を持ち続けている、という所だ。彼らは勉強することで将来、家族を幸せにしたいと語った。その内容を読み、私は「このような考えを持つ子供たちが日本にはどれほどいるのだろうか。」と考えた。ゴミ捨て場で過ごす彼らと何不自由無く生活のできる私達、普通はほとんどの人が私達の方が幸せだと思うだろう。しかし、社会の子供たちを見るたび、私は不安になってしまう。将来の夢や希望を持てず、ただただ過ぎる日々を恐いと感じることがある。このまま大人になってしまうのだろうか、と。
それに比べて、アロマの子供たちは目を輝かせて筆者に勉強を教えてもらう。勉強をできることが当たり前となっている私達が忘れてしまう感情だろう。

 当たり前の生活がどれほど幸せで恵まれているのか、かみしめて私達は生きていく必要があるのではないだろうか。

東八早奈子さん 新潟県

 自分が最も印象に残ったのは、1章のアロマのゴミの稼ぎで暮らす子どもたちです。
アロマの子どもたちの「勉強することは大好き!英語を学びたい、そして家族を幸せにしたい!」という言葉に強く心を打たれました。自分は勉強というのは有意義なことで面白い物であるということは分かっています。しかし、今の日本にはゲームや漫画など楽しい、面白い娯楽がたくさんあります。どうしてもそれのやりたさのために自分は勉強をおろそかにしてしまう傾向があります。アロマの子どもたちはなぜ勉強は大好きなのか?私は大人とともにゴミを拾って働くアロマの子どもたちにとって勉強は最高の娯楽なのであると考えました。本文中の中でアロマの子どもたちは、絵本を見て食べ物や動物の絵を指して、英語や日本語でどうやって言うのかを尋ねています。この文を読んで私は、絵本の絵を他の言語で知るということはゲームみたいで面白いなと思いました。
私はアロマの子どもたちを知って、勉強は自らの好奇心を満たすことのできる楽しい学びであると気づくことができました。思いおこしてみると、知りたいと思っていることはたくさんありました。なぜ人間は水に浮かぶのか?なぜ月は欠けるのか?これらはすべてこれまで習ってきた理科で解決することができました。たしかに、理科でこれらの単元をやっている時は楽しく、自分が生き生きしていたように感じます。この話を読んで、勉強の面白さや楽しさを忘れてしまっていたなあと思いました。公式や文法を覚えることは本来の勉強ではない、そこにかくれている本当に自分がやりたいこと、知りたいことに気づくことが大切であり、そのために知識を増やしていくことが学びであるのだと考えさせられました。アロマの子どもたちのように、楽しく学び、自分自身を向上させるという志を持って学校生活を送っていきたいです。

チロさん 新潟県

 私が最も印象に残った章は、第一章の「アロマのゴミからの稼ぎで暮らす子ども達」です。世界にこのような生活をしている人がいることと、彼らの幸福観について知って、衝撃を受けました。
私はまず、写真を見て目を疑いました。子どもたちはごみを漁っていて、道はお世辞にもきれいだとは言えず…。ここが、人が暮らしている場所なの?と信じることができませんでした。
文章を読んでいて、強く感じたことは、まず第一に、安全な環境にしていくべきだということです。病院で使用済みの医療器具は、病院や国が責任をもって始末しなくてはいけないと思います。病院は、来院した人のためだけにあるのではありません。たとえお金がなくても、人間一人一人の価値は同等だから、地域全体として、全員が健康でいられるような最低限のことはするべきです。
また、子どもたちのことで特に心に響いたことは、誰もが家族想いだということです。子どもたちは、学校へ行かずに、昼間もごみ捨て場からお金になるものを探しています。しかし、著者が本を出したら目を輝かせたように、学ぶことは好きで、学びたくても思うように学べない人がたくさんいるのだなと思いました。
そこで私は、周辺国が手をとり合って、彼らのお手伝いをするのはどうかと考えました。生きる知恵を知り、学ぶ機会を増やすことで、親から子へつながっていたゴミ捨て場での暮らしにも終わりを告げられるのではないかと思います。
私たちはつい、自分たちの暮らしと比較して意見を考えがちですが、生きることへの価値観は人それぞれだと思いました。個性を尊重しつつも、困ったときはお互い様の精神で、これからも暮らしていきたいと思います。そしてアロマの子どもたちが安全な日々を送れるようになることを願います。

ししょーさん 新潟県

 私が最も印象に残った章は1章です。このお話は主にフィリピンのマニラ郊外で暮らす人たちを詳しく説明していました。彼らは、ごみの中から価値のあるものを探し、それを売り、収入にするといった日本では考えられないような暮らしをしているそうです。私は実際に世界ではフィリピンだけでなくともこのような生活に苦しむ人たちがたくさんいるというのは前から分かっていましたが、こんなにもひどいとは思ってもいませんでした。
まず私が1番に衝撃をうけたのが、1章の写真です。あたりを見わたす限りごみばかりです。人の歩く道ですら今にもごみでおおいかぶされるような感じです。筆者は、実際そこへ行くと想像よりもずっと苦しめるにおいがする、こんなにおい一度もかいだことがないとにおいがすごいことを書かれています。この写真から分かるように本当にすごいにおいなんだなと衝撃でした。また、そんなところで暮らしている子どもたちが笑顔ですごしているということも驚きでした。学校に通う余裕などなく、1日3食食べられるかという中での生活でどうして笑顔ですごすことができるのかとても不思議でした。しかし全て筆者の文を読んでみて、よく分かりました。「目標」というのは人の現在から未来までを明るく、生き生きとさせることができることです。私にもたくさんの目標があります。その目標に少しずつでもいいから努力していきたいとあらためて思うことができました。私たちがいる日本は他の国と比べても恵まれている環境にあると思います。自分の家があって、おいしいものを食べることができて、勉強することだってできる。そんな日常のようなことを1つ1つ大切にして生活していきたいと思います。そして、日々私を見守ってくれる両親への感謝も忘れないでしていきたいです。
すべての章がとてもいい話で、この夏休みの間、社会についての視野を広げることができました。

メガロドンさん 新潟県

 私が最も印象に残った章は、第1章のアロマでの厳しい生活環境の話だ。私がこの話を選んだ理由は2つある。
1つ目は自分の知らないところで、厳しい環境の中で生活している人々が大勢いるということを改めて知ることができたからだ。この話は、フィリピンのマニラ郊外にあるトンドという地球のゴミ捨て場の一つのアロマと呼ばれる地区で20000万人近くの人々が厳しい生活環境と向き合っているという話だ。彼らがこのゴミ捨て場に住む理由は、ゴミこそが彼らの収入源であるからだ。毎日私たちが出しているゴミが、彼らの生活に大きく変わっているとは思いもしなかった。毎日アロマに住む人々は、たとえわずかでも価値があるものを見つけようとして、ゴミをあさる。しかし、見つかるのは運次第。生活はとても不安定。小さな子どもまでもが働かなければならない状況に陥っている。それでも彼らはこのゴミ捨て場を家と呼び、生き生きとしている。そんな彼らのたくましさに負けていられないと、こんな小さなことで気を落としてはいけないと自分に言い聞かせるようになった。
2つ目は、自分がどれほど幸せに生きてこれたのかということを実感できたからだ。アロマに住む子どもたちは学校に行っていない。勉強したくてもできない環境下にいる。私は正直勉強は好きではない。それでも毎日ゴミをあさる子どもたちからすれば、なんて幸せな毎日を過ごせているのだろうと感謝しなければならないと思う。
このような厳しい生活をしている人々を助けられないだろうかと今、私たちができることを考えていかなければならないと思う。そして、日々の幸せに感謝をして、大切に過ごすということを忘れないようにしたい。

坂牧尊さん 新潟県

 自分が一番印象に残った話は、フィリピンのごみ捨て場で暮らす子供たちの話です。自分達とほとんど変わらない年齢の子供達がごみと病気がありふれた場所で生きているという事実を知って驚きました。自分たちはあたりまえのように家があり、あたりまえのように食べ物を与えてもらい生きていますが、それが如何に幸せであるのかを改めて感じると同時にフィリピンの子供達が可哀そうだと思いました。
この文章を読んだ時に自分は、自分にとっての幸せについて考えました。勉強は嫌いだし、毎日学校に行って授業を受けなければいけない自分の生活はどんなに頑張っても幸せには感じられないと思いましたが、フィリピンで暮らす子供たちは、自分より不便で危険な世界を笑顔で生きています。それを知り、始めは不思議でした。しかしすぐにわかりました。彼らが笑顔でいられるのは、自分達のあたりまえと彼らのあたりまえでは大きな違いがあるからだと。幸せとは人によって変わるものだと思いますが、彼らの生き方をみると自分が悩んでいることがとても小さく、くだらないことに感じました。きっと彼ら自身自分達が不幸であると考えたことはないと思います。

彼らの生き方から、人の人生は考え方によってよくも悪くもなるのだということを学びました。フィリピンの子供たちがごみ捨て場で暮らしているというのは、大きな問題だと思います。もちろん早急に解決できるならするべきである恐ろしい話だと思います。しかしこの問題と同じくらい怖いのは、時がたち人間の生活がよりよくなるにつれて人々のあたりまえのレベルが上がりつづけていることだと思います。一度自分達がどんな生活をしていて、どんなところに幸せを感じていたのかを思い出さなければ、今あるフィリピンにいる子供たちのような人との格差はいつまでたっても埋まらないと思います。

小山菜々美さん 新潟県

 私がこの本で最も印象に残った章は、第一章のゴミ捨て場で暮らす人々の話でした。
はじめに、私は彼らの生活している環境の悪さに圧倒されました。ひどい臭気やゴミの山、さらに注射器などの危険な物もたくさんあり、感染症にかかるリスクが非常に高く、しかもそれを治すため病院へ行くお金はない。想像しただけで恐ろしい生活だと思いました。
もし私がそこの子どもなら、きっとこの生活に耐えることができないでしょう。しかし、実際にそこに住んでいる子どもたちは、とてもいきいきしていると知って驚きました。彼らは学校にほとんど行けず、食べるために働きづめで、しかしその収入は少なく、十分に食べられることはめったにない。また、病気にかかってしまえばほぼ死ぬことが確定する。そんな生活でも、それは彼ら自身の家であり、人生なのだ。彼らは、楽しく精いっぱい生きている。なんて強く、たくましいのだろうと私は思いました。
また、彼らは学ぶことに非常に意欲的だということにも驚きました。彼らは学ぶことを好きで、それが彼らの家庭を助けることができると知っている。経済的に、学校に十分に行けていないにもかかわらず。
私は勉強が好きではない。おそらく、この国に住む同じ年ごろの人はみんなそうだろう。この章を読んで私は、自分が、いかに恵まれているのか思い知らされました。食べ物も教育も、十分に受けることができる。しかし、私を含め日本人は、そういったことを忘れて勉強を苦痛だと思ったり、人生が幸せでないと感じたりする傾向があります。アロマの子ども達は、物質的に恵まれていないが、彼ら自身の幸せをみんなが見つけて、幸せとは何かもう一度よく考えてみてはどうだろうか。そして、勉強する意義を見出し、恵まれた環境に生きていることに感謝することが、よりよく生きることにつながるのではないだろうか。

cocoさん 新潟県

 今私がおいしく食事をしているとき、同じ時間をゴミと戦いながら苦しく生活している人々がいる。我々の想像をはるかに越える悪臭と、多くの病原菌、いつなにが起きるかわからない不安定な生活と戦っている人々がいる。彼らついて私たちのように物質的に恵まれた人は考えたり思いやったりしたことはあるのだろうか。私はThe Children Living Off Garbage in Aromaを読んで2つの事を感じた。
まず、世界のこのような現状に目を向けることができている人が少ないのではないかということ。実際、生計を立てることが困難な人が世界中にはたくさんいる。そのことは、きっと多くの人が知っていると思う。しかし、その事実に目をそむけてしまう人も多いのではないだろうか。実際に現地に行くことができれば最も良いが、それが難しい人もいる。だとすれば、現状や歴史について学び、改善策を考えることくらいはできるだろう。私は今回の文章を読んで、フィリピンについて調べた。経済発展が著しい一方、社会の底辺にあたる貧困層が多い。ごみ廃棄場は20年前に閉鎖されたが、いまだごみ山に暮らす人々がいるという社会構造は変わっていない。調べないとわからないこと、調べたことで新たに感じられること、この小さな小さな行動がやがて輝く未来への大きな橋になると思う。
次に、幸せの意味とはなにかということ。人それぞれに違う幸せのかたちがあり、それは他人には分からない。だから、トンド地域に住む人たちを不幸だと一口に言うのはよくない。彼らに寄り添い、現状を知る。そして私たちの幸せと彼らの幸せの言葉の重みの違いを感じられるだろう。
私は将来、世界規模で人の役に立ちたいと思っている。だから、今回の文章を読んでどれだけ自分が無知で具体性のない人間ということを感じた。世界を見わたして、現状に目を向けられる人に私はなりたい。

ぼじさん 新潟県

 私は第一章の印象が強く残っています。自分は最近、勉強することにあたって、とても憂うつな気持ちになってしまいます。しかしこの章を読んで自分はとても幸せ者なんだと知りました。ゴミ捨て場に住む子供たちは前向きな気持ちを持って具体的な夢を持っていることに大きなあこがれを抱きました。
本文中に作者が子供たちに「勉強するのは好き?」と問うシーンがありました。そこで子供たちは「勉強することは大好き!英語を学びたい、そして家族を幸せにしたい!」と答えていました。私はそこを読んだときにそんなことを答えられるなんてすばらしいと思いました。自分のことばかり考えてしまうのはこれからやめてこの子たちのように自分のこと以上に家族のことなども考えていくようにしたいです。また、不幸なことに伝染病などにかかっても治してくれるお医者さんがいないのでほとんどの人が亡くなってしまうとありました。こんなにすばらしい子たちが死んでしまうのはとても悲しいので、どうにかして生きられる、生きやすい環境づくりができないかなと思います。具体的に日本がこの国に何か支援ができないかなと思っています。例えば、ボランティア活動などを通して服や長持ちするような食品などを分けてあげたらなと思いました。そして自分がどれだけ今、幸せな状況にいるのかというのが強く思い知らされました。自分もこれから家族に貢献してあげたいです。具体的には、勉強していくのはもちろん当然ですが、例えば料理を作ったり洗たくをしたり、自分にもできることがたくさんあると思います。そういうことを一つ一つ自分の力でやっていって家族を支えることで自分もフィリピンの子供たちのように強い志を持ってカッコイイ生き方ができるのではないでしょうか。
この作品は自分を見つめ直すこともできるし、自分の目標を設定することもできます。ぜひこのすばらしい作品をたくさんの人に読んでもらいたいです。

エジマさん 新潟県

 幸せな生き方とは何なのだろうか。
「アロマのゴミの稼ぎで暮らす子供たち」では、悪臭を放つゴミの山の中でゴミを拾って収入を得るという、日本では信じられない生活を送る人々について記されていた。文の前半を読んで、恵まれた環境に生まれた私は彼らよりも幸せであると感じた。しかし、彼らは劣悪な環境下にも関わらず生き生きとしていると、筆者は言うのだ。毎日が退屈に感じられる私よりも、彼らの方が幸せなのかもしれないとも感じた。私は、何が幸せなのか分からなくなってしまった。
しかし、考えていくうちに私は思った。何を幸せと見なすか決める必要があるのかと。私は自分とアロマの人々のどちらが幸せなのかを考えていたが、自分自身が今幸せと感じられているならば、それで良いはずなのだ。普遍的な幸せを定義づける必要はどこにもない。不幸についても同じだ。時々、「世界にはあなたよりも恵まれていない不幸な人がたくさんいるのだから、そんなことで苦しんではいけない」と言う人がいるが、なぜ自分の悩みを否定されなければいけないのだろうか。心に負担があるのは事実なのに、なぜ「あなたは幸せだ」と決めつけられなければいけないのだろうか。
これから私は、他人と自分とを比べないことで幸せに生きることができると考えた。日本は、幸福度が低く自殺者の多い国として有名になってしまっているが、他人と自分を比べてしまうという日本人の特性が、その原因の1つとなっていると私は考える。もし比べなければ、自分自身の本当の価値や本当の幸せを見出すことができ、より良い人生を送ることができるはずだ。
私は、他人に流されることなく、自分自身を見つめ直して自分なりの幸せややりたいことを見つけ出し、アロマの人々のような生き生きとした生活を送りたい。

ヒロタさん 新潟県

 幸せ、とは何だろうか。普段私たちが想像する「幸せ」とは、美味しいものを食べたり欲しい物が手に入ったりと、自らの希望が叶う、主に物質的な豊かさが得られた時であることが多い気がする。そもそも日常の中で私たちが幸福について考えることは稀であるが、現に幸福だから幸福について考えないのか。
本書の第一章ではフィリピンのゴミ捨て場の過酷な状態の悲惨さ、そんな環境に生きる子どもたちの様子が紹介されている。私が最も印象深かったのは、その子どもたちが、日々の生活もままならない中、希望を持って生き生きと暮らしているということだ。現在私たちの生活には物があふれていて、不便のない日々を送っている。もし自分がフィリピンのこの子どもたちの生きる環境にいなければならなくなった時、生き生きと生活していけるだろうか。また子どもたちは学ぶことを愛し、学ぶことで家族を養うことまで考えている。自分よりも幼いであろう子どもたちが、学びたくても学べない、安定した食事も家もない状況に置かれながらも家族を想い、養いたいと言う姿に、本当の幸せとは何かを考えさせられた。また同時に、学ぶということが許された環境下にいられることが当たり前ではないことを思い知らされた。
この第1章を読んで、本当の幸せとは何なのか、はっきりした答が自分の中で出ることはなかったが、子どもたちのように大切に想う家族が、友人が私の周りにいること、そして自分は今、学びたいことが自由に学べる環境にいることは、私にとっての「幸せ」なのだろうと思った。2008年に全米科学財団が発表した世界幸福度調査によると、麻薬組織や誘拐の多発するコロンビアが3位なのに対して、経済が発展し貧困や政情不安とはほとんど無縁の日本は43位であるそうだ。私たちは精神的豊かさを追求し、「生き生き」と暮らせるよう、もう一度本当の幸福について考えなければならない。

Chapter3

小川真由さん 新潟県

 私は第3章「デンマークの真の民主主義」が最も印象に残りました。
デンマークは先端の民主主義国としてメディアにもたびたびとりあげられていますが、同じく民主主義をかかげている日本国民の私はこの章を読んで、正直、日本とデンマークとでは比べてはいけないほどの格差を感じました。
デンマークと日本の一番大きな違いは政治と国民との距離でした。民主主義とはその名の通り、国民を第一に考えるものです。国民の、国民による、国民のための社会を保障してかかげています。日本において代表的なものと言えば選挙制度です。選挙権は18才以上の男女全てに与えられていて、比較的身近に感じます。しかし、あたり前となって疑問にすら思わない人々がほとんどだと思いますが、政治に自分が関わっていると感じることはありますか。「はい」と答えられる人なんてひとつまみもいません。それどころか、政治に無関心な人が増えてばかりいます。はっきりいって日本人は政治との距離が遠いのです。
一方でデンマークには民主主義らしい考え方があります。それは、「決断に最も影響を受ける人たちが代表して決断をするべき」というものです。例えば高齢者向けの公共サービスを決める前に高齢者住民で構成された委員会があり、そこで議論する。また、この委員会は決定権さえ持っています。また、幅広い世代の意見を尊重しており、若い大人の議員をとり入れる法もある。このようなことは日本では考えにくいと思います。しかし、民主主義はここまで進められるのだと私は思いました。そして、デンマークのようなやり方こそ、真の民主主義ではないでしょうか。
私はこの章を読んでそのように感じました。いつの日か、日本もデンマークにならって、今以上に誰もが自分たちを思った、より民主主義国家となれるといいと思います。

Chapter4

カワウソさん 新潟県

 私は4章の「日本人口減少」が最も印象に残った。自分たちの世代では、労働人口が少なくなるのに対し、高齢者(要介護者増加)や介護する人の負担が増え様々な問題が生じることを再認識した。そのような状況の中で、私たち世代に求められるのは、「柔軟性」ではないだろうか。いくつか例を挙げてみる。
本文中にあったような外国人が日本で就労したいときに立ちはだかる『入り口の障壁』。この障壁は、日本人が「柔軟性」を持てば、取り払うことができるのではないだろうか。他文化・多文化を受け入れる「柔軟性」。言葉が通じなくともジェスチャーでコミュニケーションを取る「柔軟性」。日本がより多くの労働人口を必要としている・していく中で、このような「柔軟性」をもてば、日本で就労したい外国人と労働者が欲しい日本のどちらにも、利点がある。
また、最近のブレイクスルーであるAIのような、最先端技術を使うことも、一つの選択肢ではないかと私は思う。AIが人間の仕事を奪う、悪用されてしまう、と問題視されているが、そもそも日本では、労働人口が少なくなるのだから、人間がやらなければいけないと、本質的に判断された職業が残るのは、悪いことではないと思う。もしそのような状況になったとき、素直にそれらを受け入れる「柔軟性」、もしもの時は臨機応変に自分で考えることのできる「柔軟性」がひつようになってくる。
このようなことから、私は「柔軟性」が必要であると思う。自分たちが、そのような「柔軟性」を身につけるために、英語や異国の文化などを学ぶことは、非常に有効である。今は、時々勉強が苦しいと思うことがあるけれど、それによって、自分を成長させ「柔軟性」を身につけることができたら、いいなと思う。

Chapter4

和泉万里さん 新潟県

 「男性は男性らしく、女性は女性らしく。」これが当たり前だと思っていた。幼い頃、私は女の子だから裁縫や料理や家事ができなければ立派な大人になれないという考えがあった。不器用な私は、器用な母親がそれらをそつなくこなす様子を見て、自分が女性ができて当然のことをできないことに焦りを感じていたのかもしれない。しかし、最近になって「男性らしく」「女性らしく」という言葉に疑問を持つようになった。はたして、家事ができれば「女性らしい」ということであり、できなければ「女性らしくない」のだろうか。
今回この文章を読んで、改めてジェンダーという概念について考えた。現在日本では、男性は仕事、女性は家事、育児というようなそれぞれの役割を明確に区別する考え方が一般的だ。育児休暇の男女の取得率の大きな差は、それを如実に示している。特に年配の人は男性が育児をすることは腑に落ちないと考える割合が高く、若い男性が育児休暇を取りにくくなってしまっている。
私はこのような現況を変えるべきだと感じている。なぜなら、女性の就労時間の長さからもわかるように、仕事と育児の両立は女性にとって大きな負担になりうるからだ。仕事とは異なり、家事や育児には休暇がない。仕事も家事も育児も女性に押しつけていては、身体的にも精神的にも疲労困憊した状態が続き、生きることに嫌気がさしてしまうかもしれない。また、子どもを産むことを重荷に感じて少子化の原因になるだろう。育児は女性の義務ではない。外に出て働くことだけが男性の役目ではない。互いに互いを理解し合い協力することで、双方の負担を減らすことができるはずだ。
最近では男性への子育て講座が開かれたり専業主夫が増加したりしている。今私たちに求められているのは「男性らしさ」「女性らしさ」を追求することではなく、固定した価値観からの脱却である。

行け彼方さん 新潟県

民主化が進んだ現代でも、消えない日本の男女差別。戦後、「男女共同参画社会基本法」や「男女雇用機会均等法」など、様々な法律がつくられ、男女が平等にあつかわれる社会へと努力がなされているにもかかわらず、未だ日本に根強く残っています。 
私はこの文章を読むまで、男女差別はいけないことであり、「女性だから結婚して仕事をやめるだろう」「男性は外でお金を稼ぐべきだ」といった固定観念はおかしいと思っていました。性別で人を2つに分けて、総称するのは、人それぞれの個性をふみにじる行為です。 
しかし、この文章を読んでいる時、男性が子育てのために会社を早く退社し、女性がお金を稼ぐためにバリバリ働いている様子を読んで、「なんだか変だな、逆転している」と思ってしまいました。その時私は、自分も性別に対する固定観念を持っていたことに気がつきました。このような人ばかりいるから、日本で男女差別はなくならないのでしょう。 
本文には、女性の勤務時間は男性よりも約1.5時間程短く、その分家事を男性よりも2.5~3時間程長く行っているとあります。女性としては、共働きの家庭が増えてきている中で、どうして女性だけ子育ても家事もやらなければならないのかと疑問に思います。しかし、男性もそれなりの理由があるのかと、考えさせられました。それは、男性の育児休暇取得率について読んだ時です。女性でさえ、育児休暇や産休をとるときには周囲の目を気にしなければならない社会であるのに、男性であればなおさら育児休暇をとりたくてもとりにくい状況にある場合は多いのだろうと思いました。 
日本は現在、少子化が進んでいますが、それには男女差別も少なからず影響していると思います。男女が平等であれば、子供を育てていける経済力を女性も持ち、男性も育児に参加できる社会になるのではないでしょうか。

黒金茉彩さん 新潟県

  私が最も印象に残ったのは五章です。この文章を読んで感じたことは二つあります。 
一つ目は、男性の育児休暇取得率の低さです。女性が約九割の人が取得しているのに対して男性は約一割五分。男女雇用機会均等法が制定されて三十年以上経ちますが、未だ日本人の考えは男性は外で働いて女性は家のことをというものからあまり変化していないように感じました。私は将来大手企業に入社してバリバリ働くのが夢です。しかし、子供ができたら女性は昇進するのに子供の存在が障害になってしまうのが日本の現状です。この問題を解決するには、会社が男性に育児休暇を取りやすくさせることが重要だと考えます。実際に男性職員の育児休業百%を目標に掲げ見事達成している企業もあります。このような取り組みによって女性は働きやすくなり仕事と子育ての両立が図れると思います。 
二つ目は、少子化が進行している日本ですが、国としての対策が足りないということです。日本と同様に少子化であるスウェーデンでは育児休暇期間が長く、男女共に取得率は約八割です。育児の考え方についても平等的な考えです。これにより出生率は増加傾向にあるのです。日本でも育児休暇制度をもっと整え、働きたい人でも子育てしやすい環境作りをすることで子供を育てたいという夫婦が増え少子化対策になると思います。まずは、成功している国や地域の真似をしてみることから始めてほしいです。 
今回この文章を読み、働く上で現在の日本には男女の平等性がまだまだないことがわかりました。制度を整えるためには課題は多く存在しますが子育てしている女性でも不利なく働ける環境作りや男性側の支援も行う会社が必要だと思いました。

潮干狩りさん 新潟県

  私はチャプター5の「ジェンダーはどのように作られるか?」の章がとても印象に残りました。 
本文中では男性と女性の家族と職場それぞれでの立場について書かれていましたが、私は終始疑問でした。家事と育児は女性のこと外で働くことは男性のこと、ということにあまりピンと来なかったからです。それは私の環境のせいだと思いますが、私の家は両親共働きでどちらが忙しいかなんて差のないくらいどちらも忙しそうで、しかしながら父も母も家事をしていたし私にもかまってくれていました。私の叔母家族にも子どもが2人いますが,私の家のようなスタイルでした。なので、私にはずっと家事と育児は女性の仕事なんて概念はなくて、男の人もやるものだと思っていました。 
しかし、中学に入っていろいろな友達と話をしていてそれが普通じゃないんだということを知りました。お父さんなんもやらないよとか、うちはお母さん働いてないよとか、それぞれの家庭で男の人と女の人でやることが分かれているところもあるんだなぁと実感しました。実感したらしたで両親にありがたさを感じました。 
ここで本文の話に戻ると、3段落に書いてあるように固定観念を変えることは可能だと私も思いました。現に私と私の友人の間で違いがあるからです。私には男性も女性も家事育児をするという固定観念があり、友人には男性は家事をやらないという固定観念があります。その家庭が自分の子どもたちにどのような姿を見せるかによって子どもたちの固定観念が変わるのなら、大人たちが男女差をなくす努力をしなければいけないのだと改めて思いました。しかしながら、パートナー同士で男女の役割を分けるという固定観念が一致しているのならば、無理にする必要もないのかなとも思いました。

Chapter6

ちぃさん 山口県

私が自分の中で一番直したいと思うところは、ネガティヴ思考であるところです。私は女子ソフトテニス部に所属していますが、試合で緊張してしまい、 「ペアの子に迷惑をかけてしまったら…」、「負けてしまったら…」というような、マイナスの考えで頭の中が埋め尽くされてしまいます。 友達に「大丈夫、大丈夫」と落ち着かせてもらったり、「しっかりしなさい」と怒られたり、毎度そのようなことを繰り返しています。
私は、このYour Own Futureの中で、6章の内容が一番印象に残りました。筆者の考え方が、あまりにも自分の考え方と違っていたからです。 筆者が舞踏家であることも影響しているのでしょうが、私なら、腰椎を損傷したら、迂闊な自分を責めるだけだろうと思います。たとえ私が舞踏家だったとしても、 私のようにネガティヴな人間は、どれだけ頑張っても筆者の考え方のようにはならないでしょう。
考え方にはもともとの自分の性格が大きく関係していると思います。そして、ソフトテニスのようなスポーツも、舞踏のような演技も、精神的な部分が上手くいくかどうかを左右します。 私は、筆者のようにポジティヴに物事を捉えることのできる人を羨ましく思います。一方で、この章を読み終わったあと、「舞踏は人を救えるすごいものなんだ」と素直に感動しました。
大好きな読書をしているときでさえ、登場人物の中でポジティヴで緊張しない人や、とても明るい人がいると、羨ましく思うことが多くあります。 しかし、この章を読んで、少し考え方が変わりました。もともと性格が暗くマイナスに考えがちな私のような人間でも、自分の考え方次第で、大きく変わることができるのかもしれないと思うことができました。 自分と人を比べて、人を羨ましく思う気持ちは中々変わりませんが、私も人を感動させることができるよう、ちょっとだけ考え方を変えてみようかなと思いました。

吉田汐里さん 新潟県

私は第6章の「butoh」についての話が一番印象に残っている。  あの話を読み終えた後、私はbutohについて興味を持ち、インターネットで調べてみた。画像検索をして、最初に目に映ったのは、全身を白く塗ったスキンヘッドの男たちだ。彼らのポーズや表情は何を訴えているのか、私にはよくわからなかったが、どこかしら背すじが凍るような不気味さを感じた。この不気味さは、教科書の原田伸雄先生の写真からも感じとれる。男性なのに白いドレスを身に纏っている違和感。私はbutohは世間の流れや考えに逆らうような芸術だと思った。だからこそ、普段見ないものに対する違和感や不気味さを感じるのだろう。  butohを調べていく中で、それが海外で広く知られていることを知った。ロシアの観光サイトでは、寿司や俳句と並んで日本の有名な物としてbutohが挙げられている。しかし私を含め、日本でbutohを知る人はそんなに多くはないだろう。なぜ海外では有名で日本ではそうではないのか。本文中にbutohは欧米人の体型へのコンプレックスから生まれた、とある。つまり今までコンプレックスだと思っていた東洋人の体を彼らが特別に持った特権、ハンデではなく素晴らしい要素として見せつけたのだ。今まで憧れていた欧米が、逆に憧れられる存在となる。ここにもbutohの反社会的、非常識的な側面を感じる。  本文を読み、butohについて調べていった上で私はbutohの一般的な常識にとらわれず、世間の流れの逆を行く独自のスタイルを魅力的で、かっこいいものだと思った。私もbutohのダンサーたちのように、ありのままの自分をさらけ出して、劣等感という殻を破り捨ててみたい。きっと世界が明るくなって、悩んでいたことがちっぽけに思えるだろう。

Chapter7

やまありいのさん 新潟県

 私が最も印象に残ったのは、7章「放射能とは何か、何が問題なのか?」である。 
2011年3月11日に日本で発生した東日本大震災。それによって起こってしまった福島第一原発事故。これらについて知らない人はほとんどいないと思う。この原発事故によって、私たちは今まで考えもしなかった、「放射能」というものについて知らなければならなくなった。 
私はそのときまで原子力発電所について何も知らなかった。どこにあるのかも知らなかったし興味もなかった。また、放射線についてもレントゲンを撮るときなどに少し浴びてしまうものという認識しかなかった。しかしあの事故のあとから、よくわからないけど人体に悪影響を与える危険なものというイメージに変わった。なぜ悪影響を与えるのかなどについては調べたことはなかったけど、今回この本を読んで少し理解することができたと思う。放射線が細胞を変化させたり傷つけたり殺したり、また細胞の突然変異の原因になり、白血病や甲状腺がんなどの病気を引き起こすことを知った。また、これから産まれてくる新しい命に影響がでる可能性があることも初めてわかった。また、環境も汚染され、それを安全な状態に戻すために膨大な時間がかかってしまうということも放射線の恐怖だと思った。 
私が今住んでいる新潟には、柏崎刈羽原発がある。もしこれが再稼働して、新潟で事故が起こってしまったらと考えると、ぜったいに再稼働してほしくないと思う。また、世界にも原子力発電所はあるはずである。それらもいつ事故が起きてしまうかわからない。だから、現在のことも未来のことも考えた上で原子力発電所はなくしていったほうがいいのではないかと思った。安心して安全に暮らせる社会になってほしい。

古川廉さん 新潟県

  どの章の内容もためになるものばかりだったが、私が最も印象に残った章はチャプター7の「What is Radiation?」だ。7年前の3月10日まで、私たちは「放射性物質」や「被曝」という言葉をあまり耳にしたことはありませんでした。そして、3月11日からこれらのような言葉をたくさんの場所、メディアなどで知ることになるのです。また、この章を読んで、さらに放射線の恐ろしさについて知ることができた。 
私が知った中で最も驚いたことは、女性の卵子や男性の精子の生殖細胞に突然変異が起きたら、彼らの子どもたち、これからの子孫にまで病気が引き継がれてしまうという危険性があるということだ。また、私たちが日ごろから放射線にさらされているということである。私たちが被曝しないのは、その放射線物質の量がとても少ないからであることが分かった。 
福島の原子力発電所の事故があった当初、私は家の中にいて、テレビのニュースを見ながら、他の地方に住まれている人々と自分の心配をしていた。私はこの事故がこれほどまで大きなものだと知った時はとても驚いた。チェルノブイリの原子力発電所の事故に次ぐほどの事故であったと分かった。 
福島の方々は、放射線だけでなく、大地震と津波の被害を受けてしまい、今でも仮設住宅などに住んでいたりと、自分たちの家に住むことができていない状況にある。また、他県に避難してきた福島の子どもが、放射線をネタにして生徒や先生にいじめを受けていたというニュースを聞いて、とても悲しく思った。 
チャプター7のこの文章は、私に放射線物質、原子力だけでなく、福島でどれほどの被害があり、どれくらいの危険にさらされていたのかを教えてくれた。自分から、これからも追悼をして進んで被災地に募金していきたい。

ととろさん 新潟県

  2011年3月11日。東日本大震災があった日である。その時の福島第一原発事故での出来事は日本を、いや世界をも震撼させた。大地が放射能で汚染されてしまったのである。私はChapter6を読んでその当時のことを思い出した。 
私はあの日まで“放射能”のことを全く知らなかったといっても過言ではない。だから原子力発電についても、電気をたくさん作ってくれるし、火力発電より環境にやさしいし、もっと広めればいいのに、くらいにしか思っていなかった。しかし、起きてしまったあの事故。連日のニュースや新聞で私はたくさんのことを知った。その中で思ったことは甚大な被害をもたらしてしまう原子力発電への恐怖であった。放射性物質の半減期は長い。また、放射性物質に汚染された廃棄物の処理の問題もある。私たちには、これから戦っていかなければならない課題がたくさんあるのだ。 
しかしながら、放射線はそういった影の部分ばかりではない。放射線は毎日宇宙から降り注いでいるし、歯や胸のレントゲンを撮る際も浴びる。また、これは特殊であるが、がんの治療にも放射線を使うことがある。このように、少量の放射線物質であれば体への影響は少なく、逆に私たち人間は恩恵を受けているのである。 
私は今まで知ったことから、放射線には光の部分と影の部分の双方の特徴があるということがわかった。どちらか一方だけを見て、課題に対する解決策を探そうとするのはふさわしくない。今回の事故で影の部分が及ぼした影響は計り知れない。しかし、この事故から学ぶ教訓は多くあるはずだ。また、放射線を一概に否定するのではなく、光も影も認識した上で私たちは放射線と共存していく必要がある。あの日から7年たった今、私たちにできることは何だろうか。

Chapter8

成田燿さん 新潟県

  学ぶことはつらい。中学に入学し、なかなか成績が伸びなかった私は常にこう思っていました。しかし、最近はそんなふうに感じることが少なくなりました。その理由を考えたときに、私はチャプター8に登場するまぁくんとの共通点を見つけました。 
その共通点というのは、学んだことを日常生活に生かしていることです。チャプター8の中で筆者は、まぁくんが習ったばかりのひらがなを読んだり、神楽の公演に魅了され、神楽の衣装を自分で手作りしたりと、学んだことを吸収し、アウトプットする作業をしています。私も、習ったばかりの英単語や英熟語、古典の単語でさえも日常会話に取り入れ友達との会話をしています。日々の生活に学んだことを取り入れられたときの感動が強い印象に残り、自らの知識として蓄積され、より深い学びができるのです。 
そして、学びを日常生活に取り入れることにはもう1つの利点があります。それは、他の人にもその学びを伝染させることができるところです。私の例に関して言えば、友達との会話によって、友達もその英単語や古文単語を理解することができるのです。まぁくんもそうだと思います。自分の興味を持った神楽の衣装を作り、踊ることで自らも学び、そしてそれを見ていた大人たちも驚かされ、神楽に興味を持っていくのです。 
学びは、世の中で役立てることができるから、おもしろいのだと思います。私は最初、冗談でそういったことをしていましたが、試験で悩んだときに、友達との会話を思い出し問題を解けたことが何回かありました。それはきっと友達との会話が印象に残っていたからだと思います。 
これからも私は、この方法で日々の学習を深めていきたいし、たくさんの人々にこのことが広まればいいと思っています。

めーぷるさん 新潟県

  私の将来の夢は「教師」になることだ。私が最も印象に残った章が8章の「喜びに満ちた学び」であったことに、このことは深く関係しているだろうと私は考える。 
私たちが日々大人にかけられる言葉は、ほとんどが「勉強したの?」や「成績は大丈夫なの?」などである。私は勉強が好きな訳でもない。実際のところ、勉強が好きなどと言う生徒は多くはないだろう。そんな現状の中で、教える立場にある教師は今のままで良いのだろうかと今回考えさせられたのである。 
以前「学び」というものは、物事を知りたいと言った好奇心が基礎となっていると聞いた。その好奇心が「学び」によって「喜び」に変わる時、私たちは成長すると私は思う。8章に登場するまぁくんも、漢字への好奇心から学びにつながり最後は喜びになる。 
このことから、教師は学びによる喜びを教えることこそが本来の目指す姿なのではないかと今回の8章を読み気づかされた。私たち生徒は、学び=喜びという実感が持てていない。教師こそがその学びの本質を生徒に気づかせ、自らの意志によって学ぶ能動的な学習を築くことができると考える。人から強要される学びはいつまでたっても自分の知識にならない。積極的に学び、結果として成績が上がり、達成感が得られる。この喜びと学びが共存するサイクルがあれば、きっと私たちはどこまでも大きく成長していけるはずだ。 
これから教師を目指す上で、私はこの8章で学んだ「喜びに満ちた学び」を常に心に残そうと思う。将来を担う子供達の好奇心をつぶさぬようより体験的な、体で感じる学びを大切にし、積極性を育てていきたい。そのためには、私の学びへの姿勢を今すぐ見直し、私自身が精いっぱい学びを楽しみ、手本になるような生徒像を目指したい。

2015年度感想文

Chapter1

ゆりなんさん 愛知県

私はこの“Your Own Future”を読んで、一番はじめのアロマゴミ捨て場の話が最も心に残りました。
私はこれまで小・中・高校で調べ学習やスピーチ、MCなど様々な場で発展途上国やフェアトレード、ストリートチルドレンなどという問題を調べました。私たち先進国の人間はもっと、今ある現状に感謝しなくてはなりません。勉強することができる環境に対してもです。私たちは普だん、感謝するどころか、「勉強キラーイ」だの、「課題くそー」だの、「まじ遊びたいー」といった非常に低レベルな会話をしています。確かにこの学校は課題やテストがとても多く、誰もがゆううつになります。その中でもし、考え方を変えられたならどんなに良いでしょう。なりたいもの、目指したいものをいつでも選べること。学べること。何に対してもまず選択肢があることは素敵なことです。私たちは不幸な環境の彼らとは違い、限りなく広い未来があります。
この前大学のオープンキャンパスへ行き、私は自分の夢にこの学部は合っていないのではないか。そもそもそんなに大きな夢、なれるわけないのだから持つだけあほらしい。などとても悩んでいました。でもこの発展途上国の子供たちを思い出し、今ある幸せを改めて感じました。
私は将来、どんな形であれ発展途上国を支援するような職に就きたいです。エネルギーや環境問題に取り組んだり、ただのボランティアになるのかは全く分かりませんが、いつか私も、彼らの役に立ちたいです。
この思いを大人になってもずっと忘れないでいようと思います。

鮪さん 群馬県

自分が最も印象に残った章は,第一章の,「アロマのゴミの稼ぎで暮らす子どもたち」である。それが最も印象に残った理由は二つある。まず一つめに,私は今朝,テレビで,ミニマリストという言葉をきいていたからだ。物であふれている現在,若者たちは,物が無いことに豊かさを覚え,何も持たず暮らす人が増えていて,その人達をミニマリストと呼ぶそうである。この章を読み,やはり心の豊かさにつながっているものは,物の多さなどではなく,生き方や心のもち方にあるのだと考えなおした。我々は必要でないものまでを大量生産の社会の中で手にしていて,それらに囲まれているうちに物をもつことに麻痺し,そして,何度自らの物欲にこたえても,満足することはない,そんな状況の中にいる。しかし,アロマの人々のように,何もない状況から必死に何かをみつけだし,その日を生きようとする姿勢には,現代の先進国の人々から失われてしまった真の生きがいがあるようなきがするのである。二つ目として,アロマの子供たちは学問をすることを楽しく思い,興味をもっているということが印象に残ったからだ。第八章にも似た部分がある。本来学問は興味深く,楽しいものであり,古の人々が自ら学問という分野をきりひらいたのである。しかし我々は,親の代からの豊かさの中で育つうちに,豊かさが当たり前となり,今の状態を容易に保つことができるような気がして,学問する意義を見つけられずにいる。高度経済成長期を支えた人々の子供時代とは大違いであり,学問により豊かさを得ようとしてきた先人の思いは伝わってこない,そう感じる。この様な状況の世界の中で私達は,学びたくても学べないような世界中の人々に目を向けて,生きる楽しさを分かちあうたびに行動を起こすことができるように,あらゆることを勉強し,実践していかなければならないのだ。貧困国の子,先進国の子,それぞれに出来ることがあり,それに集中すべきだと思う。

Chapter2

Chapter3

中村友哉さん 愛媛県

僕が最も印象に残ったのは、第3章のデンマークの民主主義について書かれた章だ。日本の欠点と言える「全国民の政治参加」がこの国ではなされているのではないだろうか、このような民主主義形態もあるのかと驚いた。 まず第一に特筆すべきだと思ったのは、政党それぞれが若者のための議席を用意せねばならないということだ。日本人の僕からすれば、政治とは人生経験豊富な大人がするものであり、若者に対して身近なものであるとは言い難い。文章の中で例としてあげられるヨハンネ女史を筆頭に、このような方々の存在は常に議会に新しい視点を与え、またデンマークの若者が政治に興味をもつ一つの契機となるのではないだろうか。 また、高齢者の意見を取り入れるための制度も同様に日本が見習わなければならない点であると思う。地方自治体が高齢者のためのサービスや制度を決める際、その地区に住人でいる高齢者の代表で構成された委員会に意見を求めなければならないのだ。高齢者の要望は高齢者が最もよくわかっているので、このプロセスは非常に合理的だと思う。 以上2つの例より、デンマークが若者から高齢者まで全ての人間が政治に関わるように考えていることがわかる。 そして最大の特徴は、デンマークの国民は政治家と対等であり、デンマーク政府は国民の声を聞くことを重視している点だろう。文章で挙げられた例に原発開発がある。国民の意見を尊重して原発を建設しなかったのだ。このように市民の意見を「コンセンサス会議」という形で政治に介入させるデンマークの姿勢は民主主義の極致であると僕は思う。 この文章を読んで、僕はデンマークと比較することで日本の政治の問題点を認識できたと思う。つまり、政治に参加する年代が狭く、また国民の意見を少し軽視しているのではないかということだ。これから日本の政治が変革され、民主政治が完成されると信じている。

Chapter4

Chapter5

Chapter6

あー↑さん 群馬県

私が最も印象に残った章は,土方巽さんの「舞踏」についてのチャプターである。この章で学んだことは大きく分けて二つある。 まず一つ目は,どんな逆境においても,その状況を前向きに捉えることがいかに大切かということである。私は腰椎を部活中に損傷し,コルセットをしながらの部活をしている。病院で多分治らないだろうと言われた日は,どうしたらよいか分からずに,ずっと後悔していたことを覚えている。しかし,同じような病気を持ちながら部活動を続け,優秀な成績を残している人たちのことを知り,自分もとポジティブに考えるようにした。腰をかばうために,腹筋・背筋を鍛えられるのではという逆転の発想ができ,精神的安定につなげられたと思う。土方さんのように,重要な局面で怪我などの思わぬ事態が起こったときに気持ちをどう持つかでこれほど違う考え方ができるのか,と驚いた。これは頭の片隅にぜひ置いておきたいと思った。 そして次に,アイデンティティーを認めるということの難しさだ。この章を読み終えたとき,確かに特色ある個性を持つ人々は人によく思われないという風潮があるなと感じた。今の世の中が画一化による効率を重視するあまり,人間関係の構築を特色あるものにする個性をおざなりにしてきてしまったのではないだろうか。これから大学・職場でも相手の個性や性格を理解し,尊重していくことで円滑な人付き合いをしていきたいと思う。 自らの手で新しいダンスのスタイルである「舞踏」を作り上げた土方さんの言葉はとても重みがある。勉強としてでなく,人生論としてもこの文章は私にとって有益なものであったと考える。この文章から学んだことを少しでも生かしていこうと思う。

Chapter7

Chapter8

S.M.さん 群馬県

個人的には,チャプター8の「喜びに満ちた学び」がとても印象に残っている。 正直,自分は勉強がとてもきらいだ。苦手ではあるけれど,それ以前に「勉強したい」という気持ちにならない。 思い返してみると昔からそういうわけではなかった気がする。それこそ小学校低学年時代は自ら進んで勉強をしていたように思う。毎日毎日くり返される授業で国語では新しく先生が紹介する漢字にワクワクしていた。算数では,初めて解く問題を見ると失敗など知らないというように挑んでいた。新たに知る世界に心踊らない時はなかった。 しかし中学へ進学し,だんだんと周りと比べられるようになった。より良い点数,より良い順位をとれと言われるようになった。いつのまにか,自分にとっての勉強が「新しい知の世界を知る」ことから「点数を取るため,より良い順位をとるため」に変わっていったのだ。 そして今,高校生となり,大学受験を視野に入れはじめ,より一層その感覚は強くなってきている。 正直,このチャプター8に取り組むまで昔の自分の勉強なんてすっかり忘れてしまっていた。周りに認められようと必死で,勉強を楽しむなんてことは頭のスミにも置いていなかった。 しかしこの文章を読んで,改めて「勉強は楽しいものだ」と教えられた気がする。単に点数や順位だけが勉強することのすべてではないと,思わず悟らされた。 これから定期テストや模試が増え,大学受験という大きな節目へ向かっていくと思うが,ここで学んだ,「勉強」についてを忘れずに受験勉強も楽しんでいこうと思う。

塩澤正高さん 群馬県

チャプター8「学ぶ楽しさとはどういうことか?」はまぁくんを中心に学ぶことの本来の喜び,楽しさについて書かれていた。自分の名は正高であり自分もまーくんと呼ばれていた。単なる偶然だがとても親近感が沸いた。そして物語に引きずり込まれた。 高校二年,今現在,勉強嫌い,それも良く居るのではなく比類無い程度である。終わらない課題ばかり。そんな自分にも昔はまぁくんのようなまーくん時代があった。 保育園に通っていた頃の自分は限りなく負けず嫌いでずる賢くやんちゃ坊主だった。そんな当時の人気だった遊びの主たる2つがドッヂボールと泥団子作りだった。負けず嫌いだった自分は当然一番になりたかった。でも悪くはなかった運動神経をもってしてもドッヂボールには上が多過ぎた。そして持ち前のずる賢さでドッヂボールは早々に諦め泥団子作りの達人になろうとした。周りは同じような泥玉を作るやつばかりだった。これなら勝ち目はある。と思った。唯一一人を除いて,その一人は経験の塊,先生だった。先生の作る泥団子は丁寧に磨き上げられまるで某丸っこいチョコレート菓子のようだった。No1に貪欲だった自分はその先生すら打ち負かしてやろうと思った。ただ経験の塊にはそう易々と勝てるはずもなかった。そんな時に祖父がPCを使っているのを見た。これだと思った。見様見真似でいじった。説明書なんて見なかった。それでも使い方はどんどん覚えた。もちろん泥団子の作り方も探し回った。結果先生に勝つとまでは行かないまでも負けず劣らずな物を作れるまでになった。そのころは学ぶために学んでいた気がする。それも勝手に。しかも楽しんで。チャプター8の話を読んでこんなことが怒濤のように思い出された。だからまぁくんの気持ちがよく理解できた。そしていつ,何故自分は学びの本来の楽しさを忘れてしまったのだろうと思った。 そしてこの先少し学びを楽しめそうだ。

ベリーグレートギャツビーさん 群馬県

自分は第八章の「喜びに満ちた学び」が一番印象に残った。「自分はなぜ勉強するのか。」これは誰もが疑問に思ったことがあるだろう。テレビ番組では,「学校の勉強は無意味だ。」と評論家が発言するのをたまに見る。あるいは本屋では,「学歴社会は終わりだ。」とか,「知識だけのバカ。」というような内容の本をよく見る。それらを見聞きするたびに,自分の勉強の意欲が削がれていく。一体自分達は何のために勉強するのだろうか。 この章では,様々な世界に興味を持ち,のめり込んでいくまぁくんの姿が描かれている。彼が平仮名を覚えると道路の「止まれ」の「まれ」だけ読めるようになる。そして彼は漢字を覚え,絵本も読めるようになる。自分は,何か新しいことを学ぶと,昨日見た景色と同じ景色が,今日は昨日より違って見えるのだろうと思う。もし,英語圏に旅行に行くなら,英語が分からないよりも,よく使いこなせる方が,旅行を楽しめるにきまっている。現地を観光する時,その地の歴史や文化を理解していればより深く楽しめるだろう。これは旅行に限った話ではない。自分が普段通学で使う電車も,何も知らなければただの憂鬱な満員電車だ。しかし,その路線の起点から終点,その電車の歴史,その路線の歴史などを知っていれば,例えば沿線で暮らす人々の歴史の中での思いや生活を想像することができる。たった数十分の乗車が,時間的にも空間的にも広げられ,壮大な旅になりうる。そうなれば,毎朝が豊かで楽しく思えてくるだろう。 自分は,人は学ぶことによって,自分の世界をどこまでも広げることができると思う。だから自分たちは勉強するのだ。自分は,世界はとてつもなく広く,深く,多くのもので溢れていると思う。その世界に,自分の中の意識の世界が少しでも近づけたら,日々の生活はよく豊かなものになるだろう。自分も,学校の勉強はもちろん,多くの本を読み,様々な体験をし,自分の世界を広げていきたい。

K. T.さん 群馬県

このワークからは,英語だけではない一般的な教養をたくさん学ぶことができた。特にこのワークの題名にあるように,自分の将来や自分の生き方について考えさせられる話題が多かった。 私が最も興味をもったのは,第8章であった。そう思った理由は,1章から7章を読んだからだ。1から7章の話題は,現代社会において,よく話に出ることがあり,とても重要なことである。しかし,それとはうって変わって8章はある男の子が学ぶ素晴らしさを教えてくれた,というありきたりな話だ。けれど,1番大切なことであると思う。1から7章でも,学ぶことについての言及はあったし,学者の論などの話もあった。かたい話のように思えた。そのような話を読んだからこそ,すなおに学ぶことを楽しめることが素晴らしいと思った。 私は高校生で,最近は教科書に載っている事柄ばかりを勉強し,がんばっている。けれど,それがどこまで楽しいかと言われれば,まあまあで,好きな理数科目でさえ,心から楽しいと思ったことはそこまでない。けれどこの8章の話で,主人公はたわいない日常の発見から学ぶことの楽しさを見つけている。これを読んだ時,本当の学ぶ楽しさは,教えられて学ぶのではなく,自分で発見することなのだと思った。本当にたわいないことなのかもしれない。日常にあふれている情報なのかもしれない。けれどそれを発見した時に,心から喜べる心こそ,学ぶ意欲であり,楽しさであると思う。何に対しても冷たい反応の人には分かりえない,本当の楽しさだと思う。 私は,豊かな感受性を持って,日常の新しい発見を楽しみ,かつその延長線上として高校での勉強も心から楽しめるとよいと思う。

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