慶應義塾大学名誉教授・関西大学客員教授
周知のとおり、本日、萩生田光一文部科学大臣が閣議の記者会見で大学入学共通テストでの英語民間試験の活用について2020年度からの実施を延期すると発表しました。併せて、萩生田氏のもとに検討会議を作り、今後1年をメドに結論を出す方針であることも明らかにしました。 いまの気持ちを正直に申し上げると、とても複雑な思いです。そのわけを以下に記します。
民間試験導入が延期されたことで、すでにいろいろなかたが指摘している多種多様な問題が当面回避できたという点でこの決定を喜びたい — この気持ちが根幹にあることは間違いありません。しかし、民間試験導入の方針が発表されてから不安にさいなまれてきた高校生たちやその方針に対応するため多くの時間とエネルギーを注いでこられた先生がたのことを思うと単純に《よかった!》と喜んでもいられません。
重要なことは、今回、ニュースなどで注目されているのは「経済格差」と「地域格差」の問題ですが、民間試験導入の問題点はそれだけではないという点です。 ことに、目的の異なる複数の民間試験の結果をどう同じ基準で評価するのかというのはきわめて重要です。この際、CEFRを持ち出しての議論もきちんと検証し直すべきです。なお、鳥飼玖美子さんが以下のサイトで民間試験導入の問題点を整理し、わかりやすく解説しています。
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/414086.html
もう一つ外すことができない重要な点は学習指導要領との関連です。学習指導要領は学校教育のガイドラインを定めたもので、教科書もその定めにしたがって作られています。
センター試験をはじめ、各大学入試も、学習指導要領を考慮したうえで作られています。学習指導要領に則って作られているわけではない民間試験を入試の一部として導入することによって、高等学校での英語の授業が民間試験対策講座に堕してしまう危険性があります。実際、今回の導入延期を受けてのニュースでは《せっかく、民間試験対策に力を注いできたのに!》という高校生や先生たちの声も紹介されました。 今回の延期騒動がもたらした唯一の好影響と言えるのが、民間試験導入が抱えるさまざま問題点が白日の下にさらされ、いままでとは比べものにならないほど多くの人たちに認識されるようになったという点です。民間試験導入の問題点は、南風原朝和(編)2018. 『検証 迷走する英語入試――スピーキング導入と民間委託』岩波ブックレットという優れたブックレットが1年以上も前に出版され、その後、多くの新聞や雑誌などでも取り上げられていたにも関わらず、直接、その影響を受ける高校生とその指導者を除き、これらの問題点を認識していた人はさほど多くありませんでした。今回の騒動 のおかげで、この状況が急変しました。
この数日、この問題に関する「制度設計」が十分になされていなかったというコメントを数多く耳にしました。このあまり耳慣れないことばは「新しい制度を作る、または現行制度を改善する場合に、その目的、対象、事業内容、必要な組織、運営の仕方などをまとめた計画」(デジタル大辞泉)を指すとあります。そもそも今回の民間試験導入の方針が最終的に、どこで、だれが、どのような議論を経て決定されたかということは未だ不明のままです。つまり、制度設計の過程が不透明なまま、民間試験の導入を強行しようとしたところに今回の騒動の根源があるのです。今後予定されている「検討会議」ではその透明性を確保し、将来に禍根を残さないよう議論を尽くして欲しいと思います 。わたくしたちも今度は同じ轍を踏まないよう、議論の過程を注意深く見守り続けていく必要があります。 最後に、今回の決定はあくまで民間試験導入の「延期」であって、「中止」ではないという点を指摘しておきたいと思います。今後の検討があくまで民間試験導入ありきのものであってはなりません。政府や文部科学省にあっては、すべてを白紙に戻し、その是非を問うことが重要であることを忘れないで欲しいと強く願います。
【補 足】
わたくし自身が委員として加わった「英語教育の在り方に関する有識者会議」(2014年)でこの件が議論されたことは事実です。その席上、わたくしなりのやりかたで問題点を指摘したつもりなのですが、残念ながらその流れをそこで止めることはできませんでした。その様子は公開されている議事録をご覧いただきたいと思います。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/102/gijiroku/1352260.htm
あのとき、もう少し、民間試験導入について、その問題点を強く主張しておくべきであったとの思いがあります。それも冒頭で述べた「複雑な思い」の一端となっています。